日本における三国志の受容と流行1


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【日本における三国志の受容と流行】

【歴史書『三国志』の受容】

『三国志』の伝来時期は正確には判明していないようである。
天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われる。
天平宝字4年淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている(『続日本紀』巻23)。
『続日本紀』巻30の神護景雲3年(769年)10月10日の条に孝謙天皇#称徳天皇|称徳天皇が「府庫は但だ五経を蓄えるのみ、未だ三史(『史記』・『漢書』・『後漢書』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」という大宰府の請に応じて『史記』『漢書』『後漢書』を下賜している。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例である。中国国内でもそうであったが日本の朝廷からも歴史書の『三国志』は正史としての扱いを受けていないことを示している。
藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録『日本国見在書目録』『日本国見在書目録』の撰述時期は確定されていないが、大庭脩『古代中世における日中関係史の研究』p299(同朋舎出版、1996年、ISBN 4810422690)では寛平年間(889年 - 897年)としている。には当時の日本に存在した後漢時代の史料として『東観漢紀』『後漢書』『三国志』『後漢紀』『帝王世紀』を挙げる。また、平安末期の藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』には「『魏呉蜀志』二十帖」があり、藤原頼長は読了した漢籍として「『三国志』帝紀十巻」を挙げている(『台記』巻3・康治2年(1143年)9月29日条)。
『太平記』巻20「斉藤七郎入道々献占義貞夢事付孔明仲達事」(西源院本の事書)には、大蛇に変身する夢を見た新田義貞が吉夢であると喜ぶが、斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」諸葛亮|諸葛孔明の奮闘と無念の死に重ね合わせ、燈明寺畷での義貞の戦死を予感するという描写がある。この物語は曹操・劉備存命中に五丈原の役が起こるなど、史実や演義などと異同がある上孔明の出廬の場面も潤色されており、日本でアレンジされた一つの三国志物語とも言える。

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三国志のパチ辞典目次
1.三国志の概要
2.「三国志(歴史書)」と「三国志演義」の違い
3.中国における三国志の受容と流行
4.日本における三国志の受容と流行
5.三国志の派生した作品
6.三国志の注釈
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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